子育てママのための 親育ちカウンセリング

震災被害の振り返り 3

 

前回の記事、震災被害の振り返り2の続きです。

前回は、

「自分の体験をそれとして淡々と認めていく」

ということが大事だと書きました。

 

 

ここに考えが至るには、私が津波の被害に遭った地区へ

長期滞在したことも大きく影響しています。

 

 

震災後、夫婦で話し合い、当時2歳半だった我が子を

放射能や余震から守るために

米国へ一時避難させることを夫婦で決めました。

(元旦那さんは米国籍です)

 

 

旦那さんと子どもの出発はまだ電気も水も戻らない、

本震後1週間でした。

 

 

これは彼の家族や米国に住む友人の協力により実現したことなので、

未だに感謝しています。

 

 

私はというと、子どもと旦那さんと一緒に避難する選択肢は

あったのですが、ひとりで宮城に残る決断をしました。

このときの決断が何からきたかということは、

これを書くとそれこそ何ページ分になるかわからず・・なので

とりあえず割愛します。

 

 

断腸の思いとはこのことかと思うほど苦しかったことを、

今でも忘れられません。

 

 

しかし、この「災害現場に残る」という選択自体は

災害時に於ける心理としてありがちなことであるということを、

のちのち臨床心理士である母に言われたときには

ちょっとビックリしました。

他にもこういう選択をされた方、おられたんでしょうか。

 

 

さて震災から2週間ほど経ったころ、さまざまなものが復旧しはじめ、

高速道路の補習もされはじめたためか、

このときはじめて石巻市にいる親戚が生存しているかどうか、

バスを4、5時間乗り継ぎ安否確認に行くことができました。

(自分で運転すれば1時間ちょっとの距離です)

 

 

ここで目にした光景は、とにかく凄惨でした。

新聞で見たものとは明らかに違う。

自分が思い描いていた津波被害とも全然違う。

 

 

石巻の駅で生存者名簿に目を通し、避難所に向かいます。

 

 

ようやく避難所についたとき、「ここじゃない」と思ったのは

それが単なるがれきの山にしか見えなかったから。

しかしそこは確かに小学校で、コンクリートの建物に

車や家などの漂流物がたくさんひっかかっていて、

見た目は巨大ながれきの山だったんですね。

 

 

中に入ると多くの人たちが折り重なるようにして避難していました。

当時、体育館だけで2000人ほどの方が避難されていたようです。

 

 

結論から言うと、私の親戚はこの避難所に身を寄せており、

無事に見つかりました。

私の他にも家族や親戚、知人の安否確認に訪れた方はいたけれど、

見つからずに肩を落として帰られる方も多くいたので

おおっぴらに喜べるものではありませんでしたが。

スクリーンショット 2016-03-14 17.09.08

 

 

 

 

 

 

 

 

その日、私はこの避難所で夜を明かし、

徐々に避難所の手伝いをするようになります。

 

 

つづく。

 

 

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カウンセリングは、こころが弱いから受けるのではありません。

定期的に健康診断を受けたり、温泉やマッサージに行ったりして自分の身体を自分で管理するのと同じで、こころの状態も健康に保つべく管理し、自分自身を慈しみ、よりよい人生を送るために活用できるもの。

つまり、自分の人生をより自分らしく輝かせて生きるためのものなのです。

ぜひご活用くださいね。

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